日本と強く関わりがあり、仕事でも個人的にも特別な背景を持つ会社はあまり多くありません。お二人の歩みは、どのように始まったのでしょうか。
シュディ・ゾルタン博士:
エリカと出会ったのは1975年で、外務省の食堂というごく日常的な場所でした。ある日、3人の若い女性が座っているテーブルを見て、「できれば僕もその輪に入れてもらえないかな」と思ったことが、最初に話すきっかけになりました。
当時は、その瞬間が日本や外交、そして後のビジネスへと続く、数十年にわたる共通の物語の始まりになるとは二人とも思ってもいませんでした。
最初のちゃんとしたデートはその半年後で、1976年に結婚しました。そして同年、私達は最初の日本赴任へと出発しました。
お二人の関係の始まりから、日本が重要な役割を果たしていたのですね。最初の渡航前、日本にはどの程度馴染みがあったのでしょうか。
シュディ・ゾルタン博士:
私はモスクワ国際関係大学で日本学を専攻していたため、言語的・文化的な面では比較的準備ができていました。一方、エリカは新婚旅行中に日本語を学び始めました。私が贈ったのは、小さな語学の本でした。私たちは新婚旅行中に、初めてのレッスンをしました。
1976年の秋に初めて東京に引っ越しして、日本との関わりが始まってから、今年でちょうど50年になります。これだけでも、私たちの人生において日本がどれほど大きな意味を持つ存在になっているかがよく分かります。
シュディ・エリカ:
私にとって日本は単なる新しい文化だけではなく、学び続ける過程そのものでした。言語を学ぶだけでなく、外交上のエチケットを身につけ、国際的な環境や特殊な日本文化の中で立ち振る舞うことは、初心者としてこの新しい世界に飛び込んだ私たちにとって大きな挑戦でした。私たちは多くの経験をし、環境に適応していきました。それが、真の人間関係を築く上で非常に大きな助けとなりました。

日本のビジネス文化や社会文化は「閉鎖的」だという声をよく耳にします。お二人はどのように感じられましたか。
シュディ・ゾルタン博士:
その指摘には一理あります。だからこそ、私たちの存在が必要なのです。しかし正直なところ、私たちはその「閉鎖的」をほとんど感じませんでした。もちろん語学力も重要でしたが、それ以上に大切なのは姿勢でした。敬意、細やかな配慮、そして心からの関心です。私たちは非常に早く受け入れられ、数十年にわたって続く関係を築くことができました。
日本とハンガリーの関係において、外交だけでは達成できない「何か」が必要だと感じたのはいつ頃でしょうか。
シュディ・ゾルタン博士:
最初に東京で勤務した際に(1976–1980)、従来の外交のやり方だけでは不十分だと確信しました。経済関係には大きな可能性がありましたが、ビジネス、文化、そして人間的な側面の両方を真に理解している人がいませんでした。
大使として(1995–1999)、将来性のあるハンガリーと日本のパートナーを結びつけることもよくありましたが、その後のプロセスを導く人がいないために、そうした協力関係がしばしば立ち消えになってしまうのを目の当たりにしました。情報が不足しており、信頼も足りません。そして、それらが欠けている場所ではビジネスも成立しません。
その時、「二つの世界の架け橋となるコンサルティング会社が必要だ」という考えが生まれたのです。
事業を始める決定的なきっかけは何だったのでしょうか。
シュディ・ゾルタン博士:
これまでの実務経験と、とても具体的なフィードバックでした。大使としての任期の終わりに開かれた送別会で、日本の著名な実業家(当時のアサヒグループホールディングスの社長)が私にこう言いました。「シュディさん、ビジネスをすべきだ。自分の会社を持つべきですよ」。この言葉がずっと心の中に残っていました。
帰国後、私たちは意識的にリスクを取り、新たな挑戦に踏み出しました。それはグリーンフィールド投資でしたが、ゼロからの出発ではありませんでした。何十年にもわたって築いてきた外交的・経済的・人的な基盤があったからです。
決断が正しかったと確信させてくれた最初のクライアントはどなたでしたか。
シュディ・ゾルタン博士:
最初の重要な契約はグラフィソフト(Graphisoft)社でした。しかし、本当の転機となったのは、2000年代初頭のビデオトン(Videoton)社に関連する日本プロジェクトでした。この案件は規模も影響も非常に大きく、何百もの雇用に影響を与え、その後何年にもわたって会社の成長の方向性を大きく左右しました。
多くの企業が「アットホームな雰囲気」と言いますが。当社においてそれは実務的にどのような意味を持つのでしょうか。
シュディ・エリカ:
ゾルタンと共に経営しており、社員の多くは私たちの子供の世代でした。そのため、彼らに対しては、親のような責任感を自然と持つようになりました。
社員が単なる同僚だけでなく、パートナーであることを大切にしました。仕事だけでなく、カジュアルな集まりや社員旅行、さまざまな行事を通じて、私たちはお互いを深く理解するようになりました。互いに気にかけ合う関係が築かれ、長い目で見ると、それが人材の定着につながる力となりました。

新しい社員に、これまでそして今も求めている価値観は何でしょうか。
シュディ・ゾルタン博士:
日本に対する情熱、勤勉さ、開放性、そして協調性です。日本語と日本文化の習得には、それ自体に規律と忍耐が必要です。このような人々は、一般的に長期的な視点を持っています。
また、私たちの企業文化の一つとして、重要な決定はもちろん、時には小さな決定についても、社員の意見を積極的に求めています。新しいポジションの採用面接にも社員を参加させており、会社の財務状況についても定期的に共有しています。まさにチームワークの実践です。
これまで多くの日本人社員もチームに加わってきました。日本人がいることをなぜ重要視したのでしょうか。
シュディ・ゾルタン博士:
日本のパートナーにとって、日本人スタッフが在籍しているということは、信頼を築くうえで大切な要素だと考えています。私の外交経験や大使としての経歴、受賞歴などもありますが、それ以上に重要なのは、日本のビジネスマンが同じ日本人と母語で、共通の文化的背景や考え方の中で話せるという点です。比較的早い段階で、2002年に日本人の同僚を採用しました。彼女はそれまで数年間ハンガリーで学び、その後働いており、現在も私たちと一緒に働いています。
これは単なる象徴的な問題ではなく、非常に実質的な意義を持つ問題です。日本のビジネスの世界では、信頼は個人的なつながりを通じて築かれます。そして、日本人の同僚の存在は代えがたいものです。
一方で、それだけで成功が保証されるわけではないことも経験から学びました。かつて日本人社員の一人は、幅広い国際経験と強固な人脈を携えて入社しました。彼は非常に好感が持てる誠実な人物で、チームの雰囲気にも前向きな影響を与えてくれました。私たちは彼から多くのことを学び、特に日本における意思決定の仕組みや、日本のパートナーと「いつ、何を、どのように」コミュニケーションすべきかについて理解を深めました。しかし、当初期待していたほど具体的なビジネス上の成果にはつながりませんでした。
その後の日本人社員たちとの経験を通じて、私たちは「日本人といっても一人ひとり違う」ということも分かりました。
ハンガリーでも誰もが営業やビジネス開発に向いているわけではないのと同様に、日本の場合でも同じことが言えます。

当社はイベントでもよく知られていますが、ビジネスだけでなく文化的な架け橋としての活動も重要視されていますね。
シュディ・エリカ:
はい。ビジネス関係の構築に加えて、両国を文化的にも近づけることが重要だと考えていました。私たちは数多くの展示会を通じて、日本ではハンガリーのアーティストを、ハンガリーでは日本のアーティストを紹介しました。そして合唱団も行き来しました。また、リスト・フェレンツ音楽大学で学ぶ日本人学生のためのコンサートを15年間にわたって開催し、ひとつの伝統を築き上げました。この取り組みは現在、ハンガリー日本友好協会に引き継がれています。私にとって、これらはまさに情熱を注いだプロジェクトでした。

この25年を振り返って、最大の成功、あるいは最も重要な節目だと感じていることは何でしょうか。
シュディ・ゾルタン博士:
会社の運命を決定づけた瞬間はいくつもあるため、一つ選ぶのは難しいですが、具体的なビジネス成果で言えば、ブラザー工業とビデオトンの協力関係の構築は、間違いなく最も重要な節目の一つでした。
ロンドンにある日本の銀行の中堅社員からの委託を受け、私たちはブラザー工業向けのサプライヤーを探しました。当時、ブラザー工業はプリント基板の調達において深刻な困難に直面していました。以前にも双方で交渉が行われたものの、うまくいかずに終わっていました。それでも私は、このプロジェクトは実現可能だと確信していました。粘り強く調整を重ね、アプローチの見直しを経て、最終的にはシャールボガールドにおいて200人以上がブラザー工業向けに製造・組立されたプリント基板の業務に専従するまでに至りました。これは大きなビジネス上の成功であっただけでなく、ハンガリーと日本の産業協力が長期的に成立し得ることを示す事例にもなりました。
また、大林組・シュヴィーテルスキー・コンソーシアムによる地下鉄4号線プロジェクトも同様に重要だと思います。特に、日本の建設会社が大規模な入札に単独で参加するのではなく、経験豊富なハンガリーのパートナーと共に参入するべきだという点でした。この戦略は最終的に成功につながり、複数年にわたる実りある協力関係と、今日のブダペストにとっても重要なプロジェクトの実現につながりました。こうした瞬間こそ、自分たちがプロセスに本当の価値を加えられたと実感できるのです。
シュディ・エリカ:
私は少し違う視点から考えています。私にとって最大の成功は、特定の一つの取引に結びつくものではなく、長年にわたってどれだけ前進してきたかという点にあります。これまでに私たちと共に仕事をしてきた企業が、今では自信と信頼をもって他社に紹介してくれるようになりました。また、日本をビジネス戦略の対象として見据える西欧企業の間で、私たちの存在が認識されるようになってきています。これは、私たちの評判の良さと必要性を示しています。
この25年間で築いてきた信頼のネットワーク、すなわちパートナーやリピーターの顧客、そして個人的な紹介から成る関係性こそが、私にとって会社の最大の成功の一つです。これは今後もさらに発展させていくべきものだと考えています。
私たちは1976年9月に東京に到着しました。当時、私は外交官として最も階級が低いアシスタント・アタッシェとして、ゼロからのスタートでした。しかし、大使館で唯一日本語が話せたため、職務内容は多岐にわたり、ありとあらゆる仕事が私の机に回ってきました。さらに執務室が正面玄関の近くにあったため、日本語しか話せない来訪者が来ると、すぐに私が呼ばれました。
ある日、日本人の秘書がやや懸念した様子で私に声をかけてきました。「予約もなく、髪はぼさぼさでラフな服装の男性が来ているのですが、大使館の誰に紹介してよいか分からなくて…」と彼女は言いました。「おやおや、そんな風変わりで、場違いとも思える身なりの人が、ハンガリー大使館に何の用だろうか」と不思議に思いましたが、興味が湧いた私は、とりあえず彼の話を聞いてみることにしました。
その男性は村井正直医学博士でした。この出会いがきっかけで、その後私たちは長年にわたって、密接に協力して仕事をしました。正直に言うと、身体に不自由を抱えて生まれた子どもたちを治療するための専門的な運動療法である「ペトゥメソッド」について、私は彼から聞いて初めて知ったのです。
村井先生(そう呼ばせていただけるならですが)は外科医であり、柔道十段の高段者でもありました。初めは柔道の関係でハンガリーのタタバーニャを訪れましたが、その滞在中にペトゥ研究所も訪問しました。
そこで彼が目にしたものが、当時すでに国際的に認知されていたペトゥメソッドを日本に導入するきっかけとなりました。初期の取り組みでは、村井先生自らの資産を用いて行われました。私はこの崇高な志を支援する価値があると考え、最初の日本人研修生がコンダクター養成のためハンガリーへ渡航するにあたり、ビザの手配に尽力しました。その後数年にわたり、多くの日本人学生がペトゥ研究所で研修を受け、その知識を日本へ持ち帰りました。
村井先生と、同じく医師である奥様は、自らの資産と多くの支援者の協力も得ながら、大阪近郊の平塚に「わらしべ学園」と呼ばれる最初の施設を設立しました。その後、日本各地へと施設が設立されました。当時、イギリスではダイアナ妃の後援のもとでペトゥ研究所が活動していました。日本では高円宮妃久子殿下が同様の後援の役割を担い、羽田孜元首相や著名な作家・司馬遼太郎氏なども支援者に名を連ねていました。
教訓:外見にとらわれず、目に見えるものだけを信じるのではなく、心の声に耳を傾けるべきである。

この写真は、1999年に北海道で行われたペトゥ・メソッド施設の開所式で撮影されたものです。左から順に、村井先生、エリカ、私、高円宮殿下ご夫妻、施設の責任者、そして市長です。
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